忠敬の師 高橋 至時

 高橋 至時(たかはし よしとき)は、大阪定番玉造組の同心という身分の低い役人でしたが、当時の天文暦学者としては最も優れていた、麻田剛立(あさだ ごうりゅう)について暦学を学びました。

 私は『至時』という名前が、いかにも『暦学者』らしい名前だと思っていますが、皆さんはどう思いますか?


 至時の師、剛立は豊後国杵築藩の漢学者の家に生まれました。幼少の頃から天文暦学に興味を持ち、独学で勉強し、28才の時に日食の日時を予言して、的中させたと言われています。

 剛立は医学もマスターしており、藩医に任じられていましたが、自由に天文暦学を研究することができないと考えて、ついには脱藩して大阪に出ました。
大阪では町医者をして生計を立てながら「先事館」という塾を開いて多くの弟子を養成していました。

その中で至時と間重富(はざま しげとみ)の二人が特に優れていました。


 至時は、寛政2年(1790年)頃に剛立の門に入り、その後めきめきと頭角を現してきました。
そのころ、間重富が日本では貴重であった『暦象考成後編』という本を入手し、師弟一丸となってこの本の研究に全力を注ぎました。この研究の中心的役割を果たしたのが至時でした。

 若き天才学者である至時は、新式の測定器を開発したり、観測方法の確立に努めたりするという、理論家であり指導者タイプでした。
この理論と指導を忠実に実践したのが 忠敬 でした。

 至時は門人に教えるときには、まず中国の暦法を教えてから西洋の暦法に進むのを常としていましたが、忠敬にはいきなり西洋の暦法である『暦象考成上下編』から始めたと言われています。これは忠敬が既に中国の暦法に通じていたからです。
『暦象考成上下編』を約1年間で修めた忠敬は、寛政8年(1976年)の末には難解とされていた『暦象考成後編』に進みました。

 至時は短い生涯で非常に多くの著書を残しています。
その中でも特に有名なものが『ラランデ歴書管見 11冊』です。フランス人ラランデの著書を、オランダ語に訳したものを、更に日本語に訳したものです。

 わずかなオランダ語の単語しか知らない至時が、難解な暦学の専門書を完璧に翻訳できたのは、非凡な才能により、数式や絵図から本文の意味を推理できたからです。
この難事業をわずか6ヶ月でやり遂げた至時ですが、無理がたたり完成の翌年の文政5年(1804年)1月5日に39才の若さでこの世を去りました。

 至時の遺骸は浅草 源空寺(台東区上野6丁目)に葬られています。


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