伊能忠敬の生涯

 伊能忠敬は、隠居後50才を過ぎてから江戸に出て、幕府天文方高橋至時の門に入り、西洋天文学・西洋数学・天文観測学・暦学等を学びました。
この時の師匠である高橋至時は、忠敬の19才年下でした。

その後、幕府の命令で55歳から71歳まで、17年間全国各地を測量し、国家的大事業である大日本沿海輿地全図を完成させました。

この大事業を達成した忠敬の生涯をたどってみます。

1.幼年時代
2.当時の佐原村のようす
3.伊能家での活躍
4.村方後見に任命される
5.隠居の願い
6.参宮の旅 久保木清淵との親交
7.ついに隠居 「伊能勘解由」と改名
8.生涯の師 高橋至時との出会い
9.西洋暦学への傾注
10.緯度1度をめぐって
11.奥州街道・蝦夷地測量
12.そして、全国測量へ


 
1.幼年時代

 伊能忠敬は延享2年(1745年)、上総国山辺郡小関村(千葉県山武郡九十九里町小関)の名主をつとめる小関家の次男として生まれました。幼名を三治郎といいます。
生家は九十九里浜の真ん中あたりにあり、いわし漁の網元でした。三治郎の母は小関家の娘で、父の利左衛門貞恒は婿養子でした。

 三治郎が6才の時に母が亡くなりました。
父は、幼い三治郎を小関家に残し、兄と姉だけ連れて、生家である武射郡小堤村の神保家に戻りました。やがて分家した後、三治郎が10才の時に神保家に引き取りました。
父の実家も小関家に劣らぬ名門で、酒造業を営んでいる大地主でした。

 三治郎は、小さい時から学問が好きで、特に算術に優れていました。それには、彼の育った環境によるところが多いように思われます。
干鰯の産地である九十九里の村々には商人の出入りが激しく、網元の小関家はこれらの商人と深くつきあっていました。
また、上総・下総の農村には和算がひろがっており、三治郎はこのような環境の中で育ったのでした。

 父の貞恒は、分家してから塾を開きました。相当な教養人であったと伝わっています。
三治郎は父からも学問の基本を教わりました。

 三治郎は13才の時、常陸土浦(茨城県土浦市)にある寺で算術を学び、さらに16才の時には、佐忠太と名乗り、土浦の医師のもとで経学医書を学んだと伝えられています。
持ち前の勤勉さから、幅広く教養を身につけたのでした。

 たまたま宝暦12年(1762年)の夏、東金付近の坂田郷で土地改良事業があり、佐忠太は算術の知識を見込まれ、現場監督を頼まれました。
この時の仕事ぶりが評判になり、神保家と伊能家の両家と深い親戚関係にあった平山藤左衛門の目に留まり、伊能家への婿入りが決まりました。
佐忠太は、いったん藤左衛門の養子となった形で、改めて伊能家に婿入りしたのでした。佐忠太17才の時です。


 
2.当時の佐原村のようす

 江戸時代の佐原村は、関東一円の中でも有数の大村でした。
明和5年(1768年)の記録によりますと、家数1,322戸、人口5,085人、20字とあります。村とは言っても、実は町場を形成していたのでした。

 村の中央を 小野川 が流れ、東側を本宿、西側を新宿と呼んでいました。
毎月6回市がたち、近郷近在からたくさんの人々が集まって、小野川が船でいっぱいになるほどでした。
佐原村民が先に作った佐原村用水と 利根川 の水運が、佐原村に一層の繁栄をもたらしたのです。
江戸時代中期以降、佐原村やその近付から、多くの学者や文化人があらわれたのも、江戸との水運と、その繁栄による豊かさによると思われます。

 佐原村は五千人を越える大村であったのに、常住する武士はいませんでした。村の自治的傾向が、育っていたからです。
村は五つの組に分かれ、それぞれの組に名主と組頭の村役人がおり、村全体のことは五組の名主から選ばれた年番が当たりました。

 この五組の中に20近い町内が含まれ、町代・行司や町法という掟も町内の寄合によって定められました。
6月と8月の 祭礼 の時には、村の自治能力は最大限に発揮されました。
祭礼につきものの、喧嘩や紛争も時には起きましたが、地頭所の容喙は村の総力で、はね返したという活力のある村でした。
忠敬をはじめとして、佐原村が生んだ学者・文化人の多くは、名主などの地位につき、村政に深くかかわった人たちでした。


 
3.伊能家での活躍

 佐原村の名門と言われたのは、永沢家と伊能家です。佐原村では、特に「両家」と呼ばれていました。
両家とも小野川の東側に広大な屋敷を持ち、永沢家は浜宿組の、伊能家は本宿組の、それぞれ名主をつとめていました。
両家は佐原村用水工事の時も重要な役割を果たし、難民救済を先祖以来の伝統の美風として持っていました。

 佐忠太が伊能家に迎えられた時は、明らかに永沢家が優位にありました。
伊能家で一家の主人が2代も続いて若死するという不運が続いていたからです。
手持ちの土地は先々代からのものが、そのまま確保されていましたが、米穀売買や酒造は衰運に向かっていました。
それでも佐忠太が伊能家に入る4年前には、村民の救済のため米58俵の寄付をする余力はありましたが、隆盛を極める永沢家とは格差が生じていました。

 佐忠太は伊能家の家憲を守り、家業であった酒造と販路の拡大につとめました。
伊能家では、通称を源六といいましたが、後に三郎右衛門と改めました。その後、格式を高めるために林大学頭の門に入り、名を忠敬と改めました。

 忠敬が24才になった時「牛頭天王祭礼騒動」の当事者となりました。
また、27才の時には「佐原村河岸事件」で村の主役となりました。
忠敬はこの頃から、文書や記録に深い関心を示し、自らの経験を基に「佐原村河岸一件」という記録を残しました。

 「牛頭天王祭礼騒動」では村民の統制に苦慮し、当事者の一人である浜宿組の永沢家との義絶という苦汁を飲まされました。
しかし、この事件がきっかけで、村の昔からのしきたりや村政に関する記録を調査するようになりました。
その後の「佐原村河岸事件」では、幕府勘定奉行とのやりとりの中で、古記録の知識と文書記録が大いに役立ち、村人や忠敬の希望通りに事件を解決することができました。

 忠敬にとって、祖父景利の目に見えぬ感化・影響も大きかったようです。
景利は忠敬の妻ミチの祖父で、宝永元年(1704年)の利根川大洪水の時、幕府から大規模な堤防修復工事を受け、これを遂行するとともに、大いに米銭を施して近郷近在の難民を救済した人物です。

 それ以上に忠敬の心を打ったのは、景利の祖父景善が残した「村政百五十年の記録」を受けついで完成させたことでした。
村政の記録の大半は、景利が隠居してから5年間にまとめ上げられたのでした。この記録に目を通した忠敬は、隠居はこのためのものかとさえ思ったそうです。

 江戸幕府は、全国を支配する必要から、諸大名に命じて、何度か国絵図を作らせました。
国郡の境界・村里・街道・河川・石高を記した一種の地図です。
慶長10年(1605年)、正保元年(1644年)、元禄10年(1697年)の3回、国絵図作成の命令が出されています。

 景利は元禄の国絵図作成の時、佐原村の絵図を作ったことを、村政の記録にも、自分の日記にも書いています。
景利は宝永元年・同2年と利根川の堤防修復工事をしていますが、工事請負の財力とともに測量の心得もあったようです。

 忠敬は伊能家の主人となって18年目の32才の時、奥州の仙台・塩釜・松島方面へ旅行をしています。妻ミチと2人の従者を連れた観光旅行です。

 この頃になると家業も順調に伸びて、江戸にも出店を作りました。「千石造り」といわれる大酒造家にもなりました。
奉公人も常時20人以上、酒造りの間は50人以上にもなりました。人を見る目、人を使う手腕もまた鍛えられたのです。


 
4.村方後見に任命される

 天明元年(1784年)8月、忠敬は佐原村本宿組名主となりました。36才の時です。
佐原村では永沢家と並ぶ存在となっていたのです。当時、佐原村は天領から旗本津田氏の知行地になっていました。

 この年には利根川の出水、2年後の天明3年(1783年)には、浅間山の大噴火があり、佐原村も飢饉に見舞われました。
名主忠敬は、堤防修復工事や難民の救済に奔走しました。
関東一円では凶作が広がっていたので、関西から米を買って難民に与えるとともに、近隣の村々には安く分け与えたといわれています。

 さらに、利根川の堤防修復工事の時には、商才を発揮して経費を浮かし、永久相続金と名づけた非常用積立金制度をつくりました。
村民を代表して津田氏の地頭所へ出頭することも度々ありました。
家業も順調に進展し、地頭所への発言力も強まっていきました。

 天明4年(1784年)8月には、名主から村方後見に昇格しました。
村方後見というのは、正式に地頭所から任命されたもので、名主の上座にいて、村役・村方全体を監督する立場であります。
ここにきて、伊能家は永沢家と完全に対等の立場に置かれたのです。

 天明6年(1786年)7月、佐原村は、利根川の大洪水で大きな打撃を受けました。
浅間山の大噴火以後続いていた不作に追い打ちをかけられました。
忠敬は永沢家の当主 永沢治郎衛門と相談して、3年前に創設した永久相続金を救済にあてるとともに、家業で得た収益の相当部分を村民のために使用しました。

 忠敬の働きかけによって、佐原村民からは一人の餓死者も出ませんでした。2年続きの天明の大凶年は、懸命の努力によって防ぎきることができました。
忠敬はこれらの功績によって、津田氏から苗字帯刀を許されました。


 
5.隠居の願い

 浅間山大噴火の飢饉や、利根川洪水の対策に奔走していた年の暮れに、永年連れ添った妻ミチを失いました。
この後しばらくして、一人の女性と結ばれ、二男一女をもうけました。
最初の子秀蔵が、後に全国測量に同行し助手として働くことになります。

 天明の大凶年を乗り切って一息ついた時、忠敬は改めて自分が40才の坂を越していることに気づきました。
「伊能家の主人としてなすべき事は終わった。そろそろ隠居してもよいではないか。」そう思いはじめたのです。
祖父の景利は45才、父の昌雄は44才で隠居しています。
それに長男の景敬は、もう20才を過ぎています。自分が17才で伊能家を背負ったことを考えれば、いつでも任せられるはずです。

 忠敬は隠居後、後世の参考となるような、しっかりした仕事をしたいと望んでいました。
 忠敬が新しい目標としてとらえたのは、暦学でした。すでに測量術と算術に相当な実力を備えていた忠敬が、暦学に興味を抱くようになったのは、きわめて自然な成り行きです。

 その当時、わが国の暦学は転機にさしかかっていました。中国の暦から西洋の暦学への移行期にあったのです。
幕府天文方の改暦の動きと、大坂の町医麻田剛立一門の西洋暦研究とが、有識者の関心を集めていました。

 このころは、暦学以外にも、洋学という新しい学問の波が我が国にも押し寄せていたのです。
忠敬もその波に躍り出ようとした一人でした。

 寛政2年(1790年)に忠敬は隠居を決意し、地頭所に願い出ました。村方後見には、このような手続きが必要でした。
しかし、地頭の津田氏は息子の景敬が家督を継いたばかりであったので、これを許可しませんでした。

 それでも忠敬の決意は、ゆるぎませんでした。この後、景敬に家業の全てを任せるようになりました。
そして翌年には、家訓を記し景敬に与えました。寛政3年(1791年)9月21日のことです。

 忠敬は隠居の許可がおりなかったので、佐原にいて暦学の書を読み、機器を買い入れて天体観測を行なったりして、独学の日々を送っていました。


 
6.参宮の旅 久保木清淵との親交

 寛政5年(1793年)、忠敬は伊勢参宮の旅に出かけました。
近付の有力者たちで、前々から伊勢参りの講が作られていましたが、凶作や飢饉続きのために、延び延びになっていて、ようやくこの年に出かけられるようになったのです。

 一行10名は、江戸から東海道沿いの名所旧跡を訪ね、参宮の目的を果たしてから、奈良・吉野・堺・大坂・兵庫を回り、京都とその近郊を見物し、3ヶ月以上の長旅をしました。
忠敬はこの旅で、測量・観測の記事もある旅行記を残しています。磁石や望遠鏡を携行したのでした。

 この旅には、津宮村の名主久保木清淵が同行しています。
この人は、忠敬より17才も年下でしたが、和漢の学問に通じ、漢学にかけては、近隣に並ぶ者がない程の学識を備えていました。
清淵は後に忠敬の日本地図作製に直接協力することになりますが、この旅での親交がもととなったのでした。


 
7.ついに隠居 「伊能勘解由」と改名

 この旅の翌年、忠敬は幕府の改暦事業についての噂を耳にしました。
大坂の麻田剛立の高弟、高橋至時(よしとき)と間重富(はざましげとみ)の二人が、近々江戸に迎えられ改暦に当たるというのです。
この年、寛政6年(1794年)閏11月11日、医学者で蘭学の大家大槻玄沢が、江戸の蘭学者たちを招いて「おらんだ正月」の宴を開いたことも聞こえてきました。この日が太陽暦の元日だったのです。

忠敬は我慢し切れなくなって、再び隠居願いを地頭所に提出しました。
待ちに待った許可がおり、この時から伊能勘解由(かげゆ)と改名しました。勘解由は伊能家代々の隠居名です。

 妻の突然の死をはじめ不幸はありましたが、忠敬の決意はいよいよ堅く、息子や親戚の同意を得て、江戸に住み好きな道に進むことになりました。
寛政7年(1795年)5月、江戸深川黒江町(江東区)に隠宅を構えました。時に忠敬50才でした。


 
8.高橋至時との出会い

 忠敬が本格的に暦学の研究に進もうとしていたこの時代は、あらゆる学問で、洋学すなわち西洋の近代科学の成長期でありました。
そして、多くの民間の研究者たちが、この新しい学問に身を投じたのです。

 天文暦学の分野で名声が高かったのは、大坂の麻田剛立を中心とする民間の研究者グループです。
剛立は、豊後国(大分県)杵築藩の漢学者の家に生まれました。少年時代から天文に興味を持ち、独学で研究して、28才の時に、日食のおこる日時を算定し予言を的中させたといわれています。
彼は医学も修めていて藩医にとりたてられていましたが、自由に天文暦学を研究するため、脱藩して大坂に住むようになりました。
ここで町医者として生計をたてながら研究を深め、先事館という塾を開いて多くの弟子たちを養成していました。

 弟子たちの中で、特に優れていたのが 高橋至時 と間重富の二人でありました。
至時は通称を作左衛門といい、定番同心という身分の低い役人でした。

重富は通称を五郎兵衛といい、大坂の大きな質屋の主人でした。
 重富の質屋には蔵が11もあったので「十一屋」と呼ばれていましたが、彼の代に15に増えたので、自ら「十五楼主人」と号したという程の大金持の町人でした。

 麻田一門の学風の特色は、第一に実証を重んじ、盛んに天体の観測を行なったことです。
師の麻田剛立も、度々観測器械の改良や考案を行なっていましたが、弟子の間重富は特に関心が深く、莫大な財力を投入して職人に色々な観測器械を作らせ、天文暦学の発達に大いに貢献しました。

 第二の特色は、西洋の暦法を学び、その理論をものにしたことです。
間重富が手に入れた最近暦法の書から、天体現象の楕円軌道説を解明したのでした。

 このころ、幕府は寛政の改暦を企図していましたが、従来のお抱え学者の天文方の実力ではおぼつかないので、大坂から麻田剛立を呼び寄せ、これに当たらせようとしました。
しかし、麻田は高齢を理由にことわり、代わりに最も信頼していた高橋至時と間重合を幕府に推薦したのでした。

 こうして、高橋至時と間重富は、幕府の暦局に入ることになりました。
二人は、はじめ測量御用手伝いという身分でしたが、高橋の方は武士であったため、間もなく天文方に任ぜられました。
二人が江戸へ来たのは寛政7年(1795年)の夏、忠敬が隠居して江戸へ出たのが、同じ寛政7年の5月。忠敬は絶好の機会に恵まれたのでした。


 
9.西洋暦学への傾注

 忠敬は高橋至時が江戸へ来ると間もなく、その門人となりました。
師は弟子より19才も年下でしたが、この若い学者を師に選んだことは、忠敬のその後の人生を決定づけたと言っても過言ではありません。
一つは、この師から西洋の暦法を教示されたという点、もう一つは、この師により全国測量への道を開かれたという点においてです。

 至時は、門人に教えるのに、中国の暦法を学ばせてから西洋の暦法に進むのを常としていましたが、忠敬には、はじめから西洋暦学を教えたといいます。忠敬は既に独学で中国の暦法に通じていたからです。

 そして、1年後には最新の領域へと進みました。
至時は定例の講義日に教えただけでなく、随時文書によって忠敬の質問に答えてくれました。
また、公用で1年半ほど京都に出張した期間中も、暦局に残っていた間重富に忠敬の指導を頼んだほどでした。
師の熱意にも増して、忠敬は老人と思えぬ情熱で、新しい学問に取り組んだのでした。

 忠敬は当時最高の暦学理論を学ぶとともに、異常な熱心さで天体観測の実習に励んでいました。
観測に必要な器械は間重富に頼んで京・大坂から取り寄せ、後には自ら大金を投じて江戸の職人に作らせたりしました。
このようにして、入門後4〜5年の間に、黒門町の自宅にはいろいろな観測器械が整備され、幕府の司天文台に比べても見劣りがしないほどになりました。

 観測器械が揃うと、自宅の天文台にこもり、昼には主として太陽を、夜には恒星が子午線を通る時の水平高度やその時刻を測定していました。
西洋暦法の理論や計算の精密さが、永年の疑問を解決し、観測の成果と相まって確信を深めていきます。
忠敬の心身には若者のような活力がみなぎっていたのでした。
やがて忠敬は、天体の観測や測量の技術にかけては、至時の門下で第一に推されるようになったのです。


 
10.緯度1度をめぐって

 そのころ、高橋至時らの暦学者は、緯度1度の長さがどれくらいあるかを学問上の大きな問題としていました。
緯度1度の南北の距離については、25里・30里・32里などいろいろな説が入り乱れていましたが、いずれも実測に基づいたものでなく信用がおけません。
緯度1度の長さが確定しなければ、地球の大きさも測れないわけで、これは暦学上の大きな問題でありました。

 忠敬もこれに強い関心を持ち、浅草の暦局と黒江町の自宅が28町(3キロメートル)ばかり離れていたところから、この両地点の緯度の差と距離によって、緯度1度の長さを算出しようと試みました。
暦局は北緯35度42分、黒江町は35度40分半、緯度差1分半です。この測定値に忠敬は自信を持っていましたが、問題は南北の距離です。
これを正確に測るには、間樟や間縄が必要です。しかし江戸の町で、そんな事を幕府が許すわけがありません。
忠敬は暦局まで歩いて通っていたので、何回も歩測を繰り返し、さらには磁石を使って南北の距離を出してみたが、どうしても正確な測定ができません。

そこで至時に相談したところ、至時は次のように答えたといいます。
「たとえ距離を精密に測定することができたとしても、そんなに小さい緯度の差や距離から、緯度1度の長さを計算したのでは、信用のおける数値を得ることは無理でしょう。もうしばらく待ちなさい。」
忠敬から相談を受けた時、既に至時は、緊迫する政治情勢をにらみながら蝦夷地測量の計画を考えていたのでした。

 18世紀の後半には、鎖国日本の近海にしばしば外国の艦船があらわれ、通商を求めて幕府を悩ますようになっていました。
はじめに迫ってきたのは帝政ロシアで、寛政4年(1792年)ラクスマンが根室に入港し、日本人漂流民を送り届け通商を要求してきました。
幕府の目は、常に蝦夷地に向けられるようになったのです。
蝦夷地探検や調査団の派遣も行ない、幕府の直轄領とするなどの対策も講じられました。
沿海測量も実施しましたが、絵地図程度のものしかできませんでした。

 このような情勢を見て、至時は、自分が計画して蝦夷地の測量を行ない、幕府が欲しがっている精密な地図を作るとともに、緯度1度の長さを実測しようと企てたのでした。
そして測量や地図作成の実務担当者としては、忠敬に目星をつけていたのです。
というよりも、忠敬という人物を得て、はじめてこの計画の実行を思い立ったという方が正しいかも知れません。
忠敬のような好条件を備えた適任者は、おそらく、あり得なかったでしょう。

 その測量技術には全幅の信頼がおけますし、すぐれた記録能力もあります。
その上に佐原時代に養った統率力も備わっています。
何の勤務にも縛られない隠居の身でもあります。
老齢は少々案じられましたが、若者に負けぬ気力があります。
そして財力もあります。この最後の条件は、かなり重要でした。
なぜなら、自費を前提にしてでなければ、幕府の許可を得ることが難しかったからです。

 至時からこの計画について相談を受けた時、忠敬は喜んで引き受けました。
しかも、至時が暦学者としての立場から、この計画を主として緯度1度の長さを測定するための手段として考えたのに対し、忠敬は蝦夷地の実測地図の作成を目的とする気持が強かったようで、当局にあてた書状に、後世にのこるような地図作成の決意を述べているのです。


 
11.奥州街道・蝦夷地測量

 忠敬の決意を確かめた至時は、寛政11年(1799年)の末から、蝦夷地測量の許可が早くおりるように精力的に働きかけました。
翌年2月には許可できる状態になったのですが、人員も器城も船で運ぶことになっていました。
これでは緯度1度の長さが測定できません。至時は陸路で行けるよう交渉しました。
結局、陸路は承認されたが、そのため携行する器械の数を減らさねばならなくなりました。
命令は閏4月14日に出ました。

    高橋作左衛門弟子
    西九小姓番頭津田山城守知行所
    下総国香取郡佐原村元百姓
             浪人 伊能勘解由

  その方、かねがね心願の通り、測量試みのため、
  蝦夷地へ差し遺わされる。入念に努力せよ。
  右につき、御用中一日につき銀七匁五分宛下される。
     申閏四月
「測量試みのため」という表現からは、幕府が忠敬の実力を信用しておらず、結果に大した期待を持っていなかったことがうかがわれます。
「銀七匁五分」というのは、金一両の8分の1、すなわち2朱にあたります。一行6人分の費用を考えると、多大の自己資金を要したことがわかります。

 寛政12年(1800年)閏4月19日に、門倉隼人・平山宗平・伊能秀蔵らを従えた一行6名は江戸を出発しました。
当時、江戸の人々にとって、蝦夷地は寒冷・未開の極地と思われていました。
千住の宿まで見送った大勢の人々は、無事に再会できるか案じたことでしょう。

 忠敬の測量日記「蝦夷于役志」によれば、奥州街道北上の時は、一日に9里から10里、時には13里以上の強行軍を続けていました。
そして夜には天体の観測を行っていました。
江戸出発から30日目には津軽海峡を船で渡り、5月22日に蝦夷地に足を踏み入れています。
蝦夷地では難路が多く、1日に4〜5里を進のがやっとでした。

 それでも一行は努力を重ね、10月21日に元気に江戸に帰ってきました。
途中で下男1名は暇を取りましたが、他の5名は1日も病気せずに無事に任務を果たしました。

 忠敬は江戸に帰ってから直ちに地図の作製に取りかかりました。
これに従事したのは、忠敬と3人の助手の他、内妻栄と津宮村の名主久保木清淵でした。
清淵は主に細字の記入を手伝ったといわれています。

 完成した地図は、1里を2寸9分7厘で表した大図(縮尺1/43,636)と、その10分の1の小図とで、12月26日に幕府に上呈し、それとは別にもう一部を堀田摂津守に贈りました。
後世の参考となる立派な地図でありました。
それ以後、幕府の忠敬を見る目には、大きな変化が生じたのでした。

 その後も、緯度1度の長さについての師弟の研究は続きました。
結局、忠敬が天体観測と実測により、緯度1度を28里2分と算出したものと、至時が最新のオランダ暦書の翻訳によって算定した数値とが一致し、師弟は手を取り合って喜んだそうです。
これは、第3回全国測量後のことです。

 忠敬はこれらの業績と、天明年間の善行により、幕府から苗字帯刀を許されました。
しかし、鉄製の刀の刃の影響で磁石が狂うということで、常に竹光を差していたといわれています。


 
12.全国測量へ

 忠敬はその後、幕府から全国測量を命ぜられ、第2回測量では相模伊豆海岸から奥州海岸を、第3回測量では出羽・越後を、第4回測量では東海地方沿岸から北陸沿岸までを測量しました。

 第4回測量から戻って、わずか2ヶ月後の文化元年(1804年)の正月に、忠敬が生涯の師と仰いだ至時が39才の若さで病死しました。
忠敬の落胆は大変なものでしたが、その悲しみを乗り越えて、この年の8月に今までの測量を基に、尾張・越前以東の地図を完成させ、幕府に上呈しました。

 この時に作製した地図が、大図(縮尺1/36,000)・中図(1/216,000)・小図(1/432,000)であります。
幕府は地図の正確さに感心し、忠敬を幕吏として登用しました。
これ以降の測量は、幕府の事業として行うこととなりました。

 忠敬は文化2年(1805年)から同11年までの間に、第5回測量では東海道・近畿・中国の沿岸を、第6回測量では四国・大和路を、第7回と第8回の測量では九州・中国・中部地方の内陸部を、それぞれ精力的に測量しました。
そして、第8回測量から帰ると、それまで深川黒江町にあった隠宅を八丁堀亀島町に移し、ここを地図御用所としました。

 文化12年(1815年)には、忠敬は老齢のため参加しませんでしたが、伊豆七島・箱根方面の測量を行いました。
また、翌13年(1815年)には江戸府内の細則を行い、数ヶ月を要して縮尺6/1000の地図を作製しまし、翌年の4月に幕府に上呈しました。

 忠敬にとって、これが最後の仕事となりました。
文政元年(1818年)4月13日八丁堀亀島町の自宅で静かにその生涯を閉じました。
遺骸は遺言によって、浅草の 源空寺(台東区東上野6丁目)の高橋至時の墓のと並べて葬り、爪髪は佐原の 観福寺 に葬りました。

 忠敬亡き後その偉業を引き継いだ、久保木清淵や暦局の吏員・門弟が協力して、大日本沿海実測全図(225枚)と大日本沿海実測録(14巻)を完成させ、文政4年7月に幕府に上呈しました。


[忠敬記念館] [忠敬の生涯] [展示内容] [正確な日本地図] [忠敬の旧宅]

[高橋至時]  [源空寺]


[Go HOME]  [E-mail]


Copyright(C)1996-1998 Masami Kohayashi. All rights reserved.
No reproduction or republication without written permission.