僕の幣台(やだい)年番記録 ―― もう一つの年番記録 ――

 佐原では、関東三大山車祭りの一つに数えられている、豪快な祭り が年2回行われます。
毎年7月に行われます本宿にある 八坂神社祇園祭 と、10月に行われます新宿にある 諏訪神社秋祭り です。
この本宿の祇園祭と、新宿の秋祭りとは、それぞれ独立した祭りとなっています。

 「幣台(やだい)年番」とは、この祭りの一切を取り仕切る当番のことを言います。
祇園祭と秋祭りが独立したものでありますから、年番もまた本宿と新宿は別です。
年番の期間は3年間です。
そして、年番が終了したならば、その間の記録を「幣台(やだい)年番記録」として作成し、新宿の秋祭りの場合は諏訪神社に奉納いたします。

 「僕の幣台(やだい)年番記録」は、平成5年〜7年まで年番を努めた、新宿の 西関戸区 の年番記録作成者が、諏訪神社に奉納した年番記録とは別に執筆したものです。
誰が読んでもわかるようにと、難しい言い回しは避け簡潔にまとめられています。
ホームページに掲載することを快く了解して下さった氏に、感謝いたします。


1.女子高通りに幣台が並んだ
2.「浪逆の海」に「関戸の津」があった
3.諏訪神社が氏神様に
4.居造町(いづくりちょう)って、どこのこと
5.諏訪神社の祭り
6.永代年番と天狗さま(享保の祭り)
7.年番制度の始まり
8.居造から西関戸になった頃
9.東・西関戸の分離
10.みんなの祭り、観光化


 
1.女子高通りに幣台が並んだ

 僕は、あの日の事を良く覚えています。平成7年10月10日、第2土曜日。
朝から良い天気でした。この日は幣台年番を引き継ぎの日なので、当役さん達は張り切っていました。
何しろ、女子高通りに新宿の全ての幣台が並ぶのです。僕は、わくわくしていました。

 当日の朝、僕がお祭りのしたくをして、幣台倉の所へ行くと、たくさんの人が集まっていました。
観光客も何人もいて、盛んに写真を撮っていました。

間もなく「さんぎり」が始まり、皆が位置につきました。
幣台がゆっくりと進み始めます。
町内を廻って、法界寺下の三徳の前で止まりました。他の町内の幣台も集まってきて、決められた位置に次々と並びます。
西関戸区の幣台を先頭にして新宿全部の14台の幣台が並ぶ頃には、道路一面が見物客で埋まって、お祭り気分が最高になりました。

 11時に、幣台年番引き継ぎ行事が始まりました。
まず、正年番の西関戸区が「さんぎり」を打ち始めました。
「通しさんぎり」といって、年番から順に「さんぎり」を打って行事の始まりの儀式にするのだそうです。
準備ぶれ・本ぶれと言って、当役さんが全部の幣台の所へ行って、改まった口調で口上を述べます。

 「さんぎり」が、1番 西関戸区・2番 上新町区・3番 北横宿区と打ち終わりますと、西関戸区の幣台は法界寺下の消防機庫を囲む道を1周します。
後年番の上新町区の幣台が続きます。
香取屋ガソリンスタンドの角を右折しました。

正・後年番の2つの町内の幣台が、代表して上宿区・上中宿区を練り歩きます。これを代表巡行と言います。
この後は、14台の幣台が行列して、新宿全部の町内を練り歩きます。
コースは、香取屋ガソリンスタンドの角を曲がって上新町を通り、与倉屋の角を左折して下新町を通り、下宿に入ります。
わたせいの角を右折して、南横宿・下分・新橋本へと進みます。
忠敬橋の手前を左折して、新上川岸を通って、ほてい屋の角を左折します。
仲川岸・北横宿を通り抜けて、千葉銀行の前を右折して東関戸区から西関戸区へと進み、女子高通りの第2定位置に整列します。

こうして幣台を持っている町内を1廻りします。
なお、下川岸区には電車の線路を越えないと行けませんので、次の日に代表巡行します。

 14台の幣台が、女子高通りに全部が勢揃いするまでの間、祭りばやし が響き渡ります。
通りは見物客で身動きも出来ない程の賑わいになります。
午後の明るい日射しの中で大人形が体を一杯に伸ばして並んだ所は、それはそれは見事でありました。
僕は夢中で1台1台を見て回りました。

  1番 西関戸区  瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)
  2番 上新町区  諏訪大神(すわだいじん)
  3番 北横宿区  日本武尊(やまとたけるのみこと)
  4番 下新町区  浦島太郎(うらしまたろう)
  5番 新上川岸区 牛天神(うしてんじん)
  6番 南横宿区  仁徳天皇(にんとくてんのう)
  7番 上宿区   源義経(みなもとのよしつね)
  8番 新橋本区  小野道風(おののとうふう)
  9番 下分区   小楠公(しょうなんこう)
  10番 仲川岸区  神武天皇(じんむてんのう)
  11番 下川岸区  素戔嗚命(すさのおのみこと)
  12番 上中宿区  鎮西八郎為朝(ちんぜいはちろうためとも)
  13番 下宿区   源頼義(みなもとのよりよし)
  14番 東関戸区  大楠公(だいなんこう)

いつまで見ても、見飽きません。

 午後5時半から、年番引き継ぎ神前行事が御旅所前で行なわれました。
新宿の氏神様である諏訪神社の神様が、祭りの3日間だけお宮の中から町の中心街に作ってある御旅所(お仮屋)にお出かけになるそうです。

昔は上宿区と下宿区に、交代に御旅所が置かれていましたが、今は交通事情のため、志田ストアーの駐車場に作ります。
佐原の祭りが始まった当時は、新宿は上宿と下宿の2町内だけであって、交代で御旅所を作っていた名残だそうです。

 昔は、諏訪神社の「つけまつり」で、御神輿の後に幣台が列を作って、お供をして町内を練り歩いたと言われています。
その名残で、神様の前で幣台年番の引き継ぎをするのだそうです。
幣台の年番は、昔は、関戸(現在の東関戸区と西関戸区)の役目でしたが、今は、各町内が大体3年ごとに、順番に受け渡しをすることになっています。
今年は西関戸区が3年間の正年番を終わって、次の正年番の上新町区へ引き継ぐ、そんな儀式なのだそうです。

 御旅所の前へ、各町内の代表がきちんと並んで、年番引き継ぎ神前行事が始まります。

イ、 御祓い
ロ、 お供え物を上げる
ハ、 神主が、年番引き継ぎの祝詞を上げる
ニ、 氏子会の会長が、年番が引き継がれて、お祭りや人々の生活が盛んになるようお願いをする
ホ、 皆でおじぎをして、お願いする
ヘ、 神様から、お酒を頂く
ト、 氏子会の会長が、年番引き継ぎを諏訪神社の神様が聞きとどけてくれて、神様の大きな力で、皆が幸せになれるという挨拶をする
チ、 神輿年番幹事長も、同じような挨拶をする
リ、 幣台正年番の西関戸区の区長が、引き継ぐ年番をよろしく頼むという挨拶をする
ヌ、 幣台受年番の上新町区の区長が、たしかに年番を引き受けたという挨拶をする
ル、 手じめで、シャン シャン シャン
 一方、女子高通りでは日が暮れて、幣台の周りの提灯に灯がともり、どの町内の芸座連も、祭りばやしを吹き鳴らしています。
見物の人達も大勢、行ったり来たりで大変な賑わいです。

 午後6時過ぎ、祭りばやしが鳴り止んで、幣台の周りが急に静かになりました。
この時、御旅所で年番引き継ぎが終わったことが、西関戸区から各町内へ伝えられたのです。

 今度は、こちらで幣台の年番引き継ぎの行事が始まったのです。
まず、1番 西関戸区が、さんぎりを打ちます。
その後、2番 上新町区が、さんぎりを打ちます。
こうして3番から14番までの町内が順送りに打っていきます。さんぎりを通すと言うのだそうです。

通し終わった頃に、西関戸区の幣台が向きをかえて、幣台の列の最後につきます。
各町内の役員さん達が並んで、年番ごくろうさまと、拍手で送ってくれます。
これで1番 上新町区からの新しい番組(並び方)が出来上がり、幣台年番が引き継がれたのです。

 新しい正年番の上新町区からの、通しさんぎりが始まりました。
しばらくして、上新町区の幣台が、諏訪神社一の鳥居の所まで進んで止まり、2番以下の幣台が、一の鳥居をくぐって進むのを見送ります。
こうして曳き別れをして、年番引き継ぎの行事が全部終わったのです。
1台もいなくなった女子高通りを見て、これで正年番の役目が無事に終わってよかったなと思う一方で、何だか淋しい気持ちになりました。

 お祭りは3日間あります。初日の13日(金)は、諏訪神社で安全祈願祭をした後、町内ごとに幣台が練り歩く、乱曳きであります。
中日の14日(土)は、幣台年番引き継ぎ行事が行なわれます。
3日目の15日(日)は、中日の幣台年番引き継ぎの時に、各町内の幣台の行列が通らなかった下川岸区へ、年番の前後3町内(前年番の東関戸区・正年番の西関戸区・後年番の上新町区)の幣台が、代表して練り歩きました。

 この夜は、駅北口の佐原市コミユニティーセンター前のお祭り広場で、「特曳き」も行なわれました。
14台の幣台に灯がともり、祭りばやしが始まりますと、会場全体が、お祭りのリズムにのって、踊りや幣台の曲曳きの一つ一つに拍手が集まります。
本当に迫力のあるすばらしい出来ばえでした。

 最後に残った前・後3町内の幣台で、下番(かばん)の式が行なわれました。
これは、前年番・正年番・後年番と3年ずつ、9年間の年番を終わってその役を降りる東関戸区への、感謝とその労をねぎらう式なのだそうです。
東関戸区の9年間の年番、本当にごくろうさまでした。


 
2.「浪逆の海」に「関戸の津」があった

 祭りの終わったあくる日、佐原の祭りは、いつ頃始まったのかと、ふと思いました。
考えていきますと、佐原はいつ頃出来たのか、西関戸は………と、いろいろと疑問が出てきましたので、おじいさんに教えてもらって、西関戸の昔の事を整理してみました。

 ずっと大昔、佐原は海の底でした。
今でも佐原の低い土地の地下から、塩分の濃い水が出る事からもわかります。
当時は、銚子が太平洋に突き出した半島になっていて、鹿島から香取にかけて、深く入り込んだ海になっていたと言われています。
この海は、大変荒れた海なので、浪が逆さになる海「浪逆の海」(なさかの海)とか、梶取りの難しい海「梶取りの海」(かとりの海)とか呼ばれていました。

 それから長い年月が経って、川や海からの砂が少しずつ積もって、海岸に細長い砂原が出来て、その近くの小高い丘に住みついたのが、関戸の人達の祖先だったと言われています。
今から二千年くらい前の、縄文時代から弥生時代にかけての土器などが、橋替から大戸にかけての台地の貝塚から発見されています。
当時の人々が、浪逆の海から採ってきて食べたアサリ・ハマグリなどの貝殻を捨てた貝塚で、これから、当時の人々の生活のようすがわかります。
関戸の祖先達は、諏訪神社の近くの丘の上や中腹に住んでいて、狩りや漁や農耕をして生活していたようです。

 もう少し大きい佐原全体のようすを見ますと、今から千五百年くらい前(大和時代を過ぎて、奈良・平安時代)には、佐原は1つの村になっていました。
この頃の佐原地方の守り神として、香取神宮 は大きな力を持っており、この時代の記録が「香取文書」として残されています。
これを参考にして話を進めます。

 この記録には、西暦649年に香取郷(今の香取郡・佐原市と大体同じ地域)を香取神宮の神郡(領地)にあてられたと書かれています。
また、西暦739年の村の人口が記録されています。今の佐原市の範囲に当てはめてみますと、戸数250戸、人口7500人と推定され、大勢の人が住んでいたことがわかります。

「香取文書」の西暦1368年の記録には『下総の国、せきとの津』とあり、『さわらの津』『いわがさきの津』と並べて書かれています。
それぞれ別々の村になっていて、『せきとの津』は関戸村であったと言われています。

 佐原の歴史に詳しい清宮良造さんの説によると「せきと」とは、諏訪神社周辺を中心とした下総台地を言い、『せきとの津』とは、そこから突き出てるように香取の海に出来た津のことで、現在の新宿全域を指していたと考えられます。
『せきと(関戸)』という言葉は、関も戸も、家を守る門に関係のある字で、「北総台地の一角の、かんぬきに当たる、重要な位置に住む住民の土地」なのだそうです。
年月が経って、今から四百年くらい前には、関戸村は佐原村の中に組み入れられたとの事です。


 
3.諏訪神社が氏神様に

 諏訪神社 には古い文書が残っていませんので、詳しいことはわかりませんが、諏訪山はこの土地一帯の小高い丘であって、古い昔から何となく気味の悪い所であったようで、いろいろな神社が祀られていました。
本宿の 八坂神社 の祭神の牛頭天王(ごずてんのう)もここに祀られていて、後年、今の場所に移されました。

 諏訪山の中腹に散在していた神社の中にあった諏訪神社を、西暦1701年に山頂の今の所へ移したと言われています。
この頃すでに新宿全体の氏神様(鎮守神)になっていました。当時の有力者である伊能家(忠敬の先祖)がいろいろと面倒をみたとの事です。


 
4.居造町(いづくりちょう)って、どこのこと

 浪逆の海に、『せきとの津』があった頃から、津の海岸に砂が積もり始め、海の水が遠くへ退くに従って、関戸の下には広い湿地帯が現われました。
関戸の人々はここに田や畑を作るようになりました。
初めは、諏訪の山頂から中腹にかけて人々は住んでいて、田や畑まで働きに出てきていました。出てきて作物を作る、出作りをしていました。

湿地が徐々に乾いた土地になってきますと、関戸の農家の人達は、田や畑の近くの比較的乾いた所に家を建てて、居ながら作物を作る、居作りをするようになりました。
この人達の住んでいた所が「居造町」で、今の西関戸区なのです。
居造町の名は、西暦1580年ごろの古文書に書かれています。江戸時代の始まる前のことです。居造町の名が正式に西関戸区になったのは、明治33年(西暦1900年)ですから、330年以上もの間、西関戸区は居造町と呼ばれていたのです。
但し区の大きい単位は関戸で、その中に居造町(西関戸)と中郷町(東関戸)があったということです。

 江戸時代の初め頃の、西暦1608年の記録では、佐原村は 小野川 を境に本宿と新宿に分けられていました。新宿側をみますと、上宿組と下宿組に分かれ、それぞれ別の徳川家の旗本の知行(領地)でした。
領地といっても、旗本は年貢米をとるのが主な仕事であって、事務は名主(区長)が全てを取り仕切っていました。
関戸は下宿組に組み入れられていました。

下宿組の中が幾つかの町内に分かれていて、1つの町内はおよそ25軒くらいでした。
それが50軒以上になると分町させられました。
分町の歴史を見ますと、西暦1817年に下宿町を橋本町と下宿町に分けました。
西暦1842年に再び下宿町を下宿町と下分町に分け、横宿町を南横宿町と北横宿町に分け、下新町を下新町と中新町に分け、関戸町を居造町と中郷町に分けました。
この時から居造町として1つの町内になったのですが、幣台はずっと中郷町と一緒に、関戸として曳くことになっていました。
新宿の各町内の区分けは、この時に大体出来上がったのです。


 
5.諏訪神社の祭り

 諏訪神社の祭りは、新宿全体の氏子としての祭りとして、江戸時代の早い時期から始まったようです。
初めは、村役人が立ち会って諏訪神社の御神輿を担いで佐原村中を練り歩きました。
附け祭りとして、神輿の後を、竹や木で造った花がさ(傘鉾)や万燈のようなものを、華やかに飾り付けて持ち歩いていました。

 だんだんに町が発展してきますと、この祭りの御神輿の後につく行列が、ますます華やかになって、「水引」という車の上に人形などを飾り付けた幣台を曳くようになりました。
町内ごとにいろいろな幣台を造って、お祭りの行列に参加するようになったのです。こうして今のような祭りの形が出来上がったのです。


 
6.永代年番と天狗さま(享保の祭り)

 享保6年(西暦1721年)に各町内の幣台が出そろいましたので、祭礼についての取り決めが行なわれました。
名主の伊能権之丞の文書が残っていますので、引用します。

一、 享保六丑年、町々番組取り究めの次第は、一番・関戸、二番・上宿、三番・上中宿、四番・上新町、五番・横宿、六番・中宿、七番・下新町、八番・巻軸・下宿、然る所、関戸、上宿、たびたび争論出来候につき、権之丞心殿居士、指図致し、上新町屋台、諏訪明神の御祓い飾り附けに致し候て、関戸、上新町、上宿と順次相い定め候こと。
一、 町々、屋台、川岸通りへ繰り込み候上にて、御神輿先へ繰り越し、御還宮の事。惣じて、町々屋台の後に御神輿の御行列、村役人警護致し、巡行候儀は、祭礼古例のよし、申し伝え候うこと。
但し、時宜に寄り雨中等の節は、廿七日御神輿御還宮にても止むをえざる事。
町々ねり物屋台等、巡行あい延べ候時は、御神輿の代り、権之丞神幣の笠鉾御代りの事。
一、 神幣笠鉾は諏訪御社に安置これある処の神幣を奉写候故、御神輿、御還宮の後にては、氏子中、神幣笠鉾を以って神体の目当てに致し候定例に付き、下宿町巻軸の事。
一、 享保年中、八町の節、惣町盛り割り凡そ六十の処、下宿一町にて盛り廿なり。外七町にて盛り四十なり。
 これによると、祭礼の全ての取り決めを下宿組(名主の伊能氏の組)で取り仕切ることにして、幣台の並び方は、関戸(居造と中郷)が下宿組の名主の伊能権之丞の上納地(年貢を納める土地)なので、永代燭頭(えいだいふれがしら・毎年年番の仕事をする)として1番関戸、2番上宿、以下順に並び、8番巻軸(かんじく・巻物の芯のことで、元締め)下宿としました。
新しく幣台を造った町内が出来て数が増えても、下宿の前へその幣台を入れました。

また、上宿は、上宿名主(林七右衛門)の住んでいる町内なのに1番にならないので面白くなく、1番の関戸と度々けんかをしますので、関戸と上宿の間に上新町を入れました。
関戸は、祭りでは昔から威勢のいい町内だったようです。

 祭りの費用は、盛割り(もりわり・各町内の分担金を、その町内の財力に応じて分担の割合を決める)で、下宿が60割の20盛で約30%(名主の伊能氏が大部分の金額を出したものと思われます)、残りの7町内が60割の40盛で、関戸ほか各町内は約7%ずつの分担になります。

 この他にも、上宿と下宿(両方とも名主の住む町内)が1年交代で御旅所を置くことや、関戸が費用自分持ちで御神輿の供をする獅子連や榊を出すことなどが決めてありました。

 享保18年(西暦1733年)に諏訪神社が新築されました。
この年の附け祭りは、最高に盛り上がったそうです。
この頃の人形は、まだ人間と同じ大きさでしたが、各町内は幣台飾りをいろいろと工夫していました。
関戸は飾り物に、名主の伊能権之丞家より夏夜着を借りてきて人形に着せて、猿田彦命(天狗さま)にして飾ったところ、大当たりを取りました。
以来、関戸の飾り物は天狗さまになったと言われています。

初めの頃は天狗のお面を付けただけでしたが、時代が経つにつれて大人形になっていきました。
現在残っているのは竹ヒゴで出来た頭部と手足だけで、本祭のたびに胴体等を造ったそうです。
当時は本祭に限って天狗を飾り、乱曳きのときには榊や鏡などを飾り付けたそうです。

大人形の顔などは町内中からお符を集めてきて何重にも貼りつけて、その上に朱を塗って仕上げました。
大人形の着物は白衣120反を使って、出来上がると地上から12〜13メートルになったそうです。
利根川 を挟んだ対岸の茨城県潮来町からも、天狗さまの飾り物が見えると「今年の佐原の祭りは天狗さまが出てる。本祭りだぞ。」と大勢の人々が押し寄せたとのことです。

 寛保2年(西暦1742年)大風雨のため利根川が洪水になり堤防が切れたため、利根川対岸の南和田堤防の修理が佐原村に命じられました。
この時、関戸の人足達が、他村の手伝い人足とちがって、熱心に工事に従事したので、代官の注目するところとなり、関戸の熱心さを賞して特に「関戸郷(せきどごう)」と名づくべしと言って幟一流を授与されました。
大変名誉なことであり幣台額に「関戸郷」を掲げたと言われています。
この額は、昭和9年まで関戸の幣台に飾られていましたが、現在は大利根博物館に納められています。


 
7.年番制度の始まり

 明治10年の惣町会議で決定した「幣台規則並割合帳(へいだいきそくならびにわりあいちよう)」には、次のように書かれています。

一、 新宿 町長の儀は、去る享保六年より当明治九丙子に至り、星霜百五十六年の間、臨時要用其の外、鎮守、祭典、供獅子、榊は勿論、並びに附祭り、物等に至るまで、左の者、組法を以って、町組関戸始め、旧拾四町。

 関戸町  上新町  上宿   上中宿  横宿町  中宿町  両新町
 上河岸  中河岸  下河岸  若松町  橋本町  下分町  下宿町

右の通り今年迄、不易に、関戸町にて諸事世話方致し来り候処、今般、改正の御治世に基き惣町協議の上、町々車輪の如く、隔年に年番役相い勤め申す可く様、更に、取り極め候事。

  議 定 書
一、 今般触頭の儀は改正、年番は別冊の議定書の通り、附祭り・ねり物順廻し、年番町始め次第順席は勿論、新本両宿隔年の儀、条約も之れ有り候え共、其の年柄の善不善は計り難く候に付き、附祭り皆な休みの年は累年に相い成り侯へ共、其の町に留め置き、ねり物順廻り首尾能く相い済み候へば、速やかに次番に相い送り申す可き事。右の通り惣町一同熟議の上、確定候処、依って連印し件の如し。

  明治十年第一月二十五日

 丑年 北横宿  木内 芳兵衛    高田 喜兵衛
 寅年 若松町  小川 喜右衛門   箕輪 喜兵衛
 卯年 下新町  飯島 四郎兵衛   郡 紋三郎
 辰年 上河岸  萩原 久右衛門   大木 惣蔵
 巳年 中宿町  五十嵐 兼吉    金田 平左衛門
 午年 南横宿  立岡 治兵衛    小倉 幸介
 未年 上宿町  渡辺 金蔵     八代 四郎兵衛
 酉年 下分町  岡沢 貞助     岡田 八十七
 成年 中河岸  石毛 儀助     吉田 奥三郎
 亥年 下河岸  伊能 藤四郎    小倉 藤兵衛
 子年 上中宿町 高野 権右衛門   円城寺 庄右衛門
 丑年 下宿町  清宮 甚兵衛    高橋 儀助
 寅年 関戸町  石田 与次右衛門  石井 伊兵衛
         小早志 松吉    武田 幸吉
 
    上新町  岩瀬 九兵衛
    横河岸  福島 兵吉
    田中   小倉 庄七
    上宿台町 矢田川 福太郎   根本 太右衛門

  明治丁丑十年 陽暦九月 陰暦八月

一、 鎮守祭典、御旅所の儀は累年の間、上中宿町、橋本町、両所へ隔年に御座候所相い設け来り候処、今般惣町協議の上、更に改正し、当明治十丁丑より下分・下宿両町え跨り、御仮屋設け候事。
 享保6年より明治9年までの156年間、関戸町が觸頭の他、供獅子や榊に至るまで世話をしてきましたが、明治10年以後、この14町が順送りで年番を勤めることになりました。
附け祭り(本祭)は、米の豊作の年に行なうことになっていましたので、附け祭りを行ったなら、年番を次の町内に送ることにしました。

各町内の代表者の氏名がありますが、北横宿から関戸町までの幣台持ち14町、関戸町は中郷・居造に分かれているので2名ずつの代表です。
上新町・横河岸・田中・上宿台町は幣台を持っていませんので、立会人です。

 明治10年に北横宿が年番になってから、昭和34年に、西関戸が年番を終えるまでの一巡に82年をかけています。
戦争などで幣台の曳けない年が多かったからです。
二巡目は昭和35年北横宿から始まり、平成7年西関戸の年番終了までで35年かかっています。


 
8.居造から西関戸になった頃

 明治21年(西暦1887年)には、八朔参会(8月1日のことで、今は9月1日の参会)に、諏訪神社の全ての氏子の代表が集まって、幣台を曳くかどうかを決定していました。
今までは、決定しても守られないことが多かったので、明治33年「諏訪神社例祭執行改正案」が出されて、八朔参会で本祭・例祭のどちらかを決めるようになったのです。

 この頃の文書を見ますと、居造は西関戸と、中郷は東関戸と、書かれるようになっています。
明治33年、西関戸が誕生しました。
幣台は、西関戸と東関戸の両町で費用を出し合って、猿田彦命(天狗さま)の飾りを付け、「関戸郷」の額を掲げて、威勢よく曳いていたそうです。


 
9.東・西関戸の分離

 昭和9年(西暦1934年)9月25日の祭礼に、西関戸区の若連が親交会と書いた提灯を規定数以上付けたことを理由に、東・西関戸の間で争いがおこり、次の26日は西関戸区だけで幣台を曳き廻したことから、祭礼行事を別々に行なうとになりました。
二百年を誇る佐原で最も古い由緒ある、この幣台を真半分に分割して、両区に均等に分けることになったのです。

 昭和9年1月1日、両区の役員の立ち合のもと、若衆百余名によって曳き出された幣台に一切の飾り付けをして、正午に諏訪神社前で神主の御祓いを受けたのち、「関戸郷」の大額と猿田彦命の飾り物を諏訪神社に奉納し、彫り物以下全部を取り外して真半分に切り分けました。
この争いの最大の原因は、西関戸区の人口の増加によって、祭りのたびに関戸町の幣台が、東・西関戸の人連で洪水のようになり、思うように曳き廻しが出来なかったということです。

このように、幣台を2つに分けることが、一つの積極的な解決方法だったと言われています。
早くも翌年の昭和10年4月には西関戸区が、10月には東関戸区がそれぞれ新しい幣台を完成させました。

 西関戸区では、元の幣台と全く同じ大きさに造りました。
彫り物の半分は東関戸区にあったのですが、東関戸区が快く29個の彫り物を、西関戸区に譲ってくれましたので、彫り物は全て昔のままということになります。
昭和15年から、現在の瓊瓊杵尊の大人形を飾り付けました。


 
10.みんなの祭り、観光化

 長い戦争が終わって、人々は立ち直り、祭りも、賑わいを取り戻し始めました。
戦後、何度か規約の変更もありました。
昭和25年・昭和43年・昭和51年の改正で、
1、諏訪神社御祭礼を、佐原の大祭と称する。
2、年番の期限を3ヶ年として次の区へ引き継ぐ。
3、年番引き継ぎ行事を祭礼3日の中日に行なう。
4、祭礼日を、10月の第2土曜日を中日とする3日間とする。
などとして、みんなが参加できるお祭りになってきました。

 平成4年の本祭3日目、文化会館前広場に観覧席を設けて、新宿全町の幣台の特別曳き廻しが行なわれました。
「佐原の大祭実行委員会」が発足し、平成5年・6年・7年と徐々に幣台の特曳きが充実してきました。
マスコミにも取り上げられて、日本中に知られる「佐原の大祭」になりました。

 僕は、佐原の祭りのことを調べているうちに、自分達で楽しむ祭りから、みんなで楽しむ祭りへと、大きく進歩していることを知りました。
また西関戸区が、昔も今も祭りのリーダーであることを、大変誇らしく思います。
これからも伝統のある、このお祭りを大切にしていこうと思います。


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